豊国と辛嶋氏

辛嶋氏の盛衰

                   豊後風土記の伝える直入

                        直入郡の風景(長湯方面から祖母山、傾山を望む)

  #辛嶋氏 #柏原郷 #香春神社

 

1.豊後風土記が伝える直入
 直入について、豊前風土記(713年)に『直入の郡。郷は四所、駅は一所である。昔、直入郡(なおりのこおり)に真っ直ぐに伸びた大きな桑の樹があったことから、直桑(なほくは)といったのが訛って直入(なほいり)となった』と記されている。
 四カ所と記された内の、柏原(かしわばる)郷と救覃(くたみ・朽網郷)郷についての記述はあるが他の二郷の記述がない。しかし「和妙抄」(931年 - 938年)に、宅郷・直入郷の記述があり、記載されていない二郷は三宅郷と直入郷であったと推察できる。
 柏原郷は現在の竹田市荻町・竹田市菅生一帯、救覃郷(朽網郷)は竹田市久住町都野地区・竹田市直入町一帯、三宅郷は竹田市の東部地域、直入郷は竹田市城原地区・竹田市久住町一帯であったと考えられる。(竹田市概要より) 

                            直入郡(現竹田市全図 大正十三年作成

   2.二ヶ所の大集落
 近年、球覃郷であった宮処野(みやこの)神社近くの仏原地区(都野原田遺跡)において、補圃場整備工事に墳丘も失われた前方後方墳(3世紀中頃・全長26m)と前方後円墳(4世紀始全長37m)とが確認された。

 しかし、これらの首長墓は早い時期に破壊され、これまで知られることもなく、古墳の他にも大集落跡や同時期の集団墓の存在が明らかになった。これらの首長墓は、非常に早期の古墳であり、初期大和王権誕生の秘密を含む興味深い古墳である。

 今回の古墳群の発見や、豊後国風土記直入に、柏原郷と球覃郷の二ヶ所が占める記述の多いことから、これら両地域に首長墓が築かれ、直入における二大中心地であったことが分かった。この二ヶ所の大集落は弥生時代からの集落であり、何れも地形を利用した防御に徹した場所に営まれた。

 柏原郷の一部であった七ツ森古墳の存在する菅生台地では、台地を埋め尽くすほどの大集落(石井入口遺跡)を、深い谷が取り囲み地形的に敵からの侵入を防ぐ、天然の要害の地となっていた。球覃郷についても、くじゅう連山の斜面と言った高位置に集落を築くことにより、集落からは登ってくる敵を一望することができ、侵入者を防ぐことができた。
 このような大集落も五世紀になると、菅生台地では阿蘇カルデラへの移住や水田耕作が容易な平野部に移動し、菅生台地から人々が去り衰退したのに対し、球覃(くたみ)郷は、その後も嵯峨天皇采女(うぬめ)を出仕させるなど中世まで栄えた。

 この両者の違いは、両地域の古墳の築造年代の違いでも分かるように、球覃地域の前方後円墳は前期前半の早い時期のもので、早期に大和王権との間に服属関係が成立したことを示すものである。また行宮の所在地を示す、宮処野の地名など風土記においても大和王権との伝承が多い。

 それに対し柏原郷では、七ツ森古墳群の築造が(四世紀始~終)と球覃郷に比べ遅く、また日本書紀風土記にも、この地に遺されている地名も大和政権に従わない、土蜘蛛の本拠地として描かれており、同じ直入にあっても大和王権に対する対応は大きく異なっていた。

          

   菅生台地を囲む谷 (柏原郷)     宮処野神社(球覃郷)

3.桑の木が意味するもの
 次に風土記の地名説話として、『大きな桑の木があった』と記され、直入では桑が植えられていた事が分かる。話が変わるが、子供の頃に五、六月になると『くわいちご』と呼んでいた黒色をした桑の実を取りに行った事を思い出す。
 その桑も冬になると地上部を切って株だけにし、再び春が訪れるとそこから新芽が出て新葉を茂らせるのである。するとその葉を枝ごと切り取り、小屋で育てていた幼虫の餌として与、繭になるまで毎日繰り返す作業が続く。
 そのため風土記のような、『真っ直ぐに伸びた大きな桑の樹』とは、どの様なもなであったか想像し難く、そこで桑の木について調べてみると、日本列島には、多くの桑の巨木が存在することが分かった。
 なかでも群馬県沼田市の『薄根の大クワ』は、高さ13.6m、根回り5.6m、樹齢1500年(環境庁調査では300年以上)養蚕群馬の象徴として古くより養蚕の神として称えられ、国の天然物に指定されている。
 これから分かる事は、『大きな木』の意味する所は、昔から桑の木が植えられていたと言う、年代の経過を表現しているのであり、桑の木はたまたま生えていたのではなく、身近にあり直入を代表する木であった。
 直入は、そのほとんどが山地であり、そこでの水田耕作を難しく、後の「豊後国正税帳」(736年)では、直入郡の正税稲穀は他郡に比べ極めて少ないことが記されている。そのため、これに替わるものとして、丘陵地でも栽培が可能な桑が植えられ養蚕が行われ、それが風土記の地名説話であろう。
 また解説によると、当地には桑の付いた、荻町桑木や直入町長湯の桑畑、あるいは竹田市旧七里村の桑木原など桑の付く地名が多いとある。この他大野町にも桑原があり桑が植えられ、その葉を餌とする蚕が飼われ養蚕が行われていたことが地名からもうかがえる。このように直入では桑の木が植えられ、それに伴う養蚕が盛んに行われていたと考えられる。

                  

         薄根の大クワ                       桑の葉を食べる蚕
       (じゃらんパックより)   (西谷蚕糸博物館)

4.養蚕に係わった渡来人
 では実際に直入での養蚕業に係わっていたのはどの様な集団であったろうか。ところで機織(はたおり)は、渡来系秦氏(はたし)が朝鮮半島から伝え、ハタは機に通じ秦氏と養蚕との関係は深く、直入での養蚕業にも大きく関わっていたと考えられる。
 そして秦氏の中でも、直入での開発や養蚕に直接係わっていたのが、当時秦氏の一派であった辛嶋氏であろう。豊前を本拠地とする秦氏に比べ、直入と同じ後の豊後に属する宇佐を本拠地とすることから、族長の辛嶋勝(からしますぐり)を先頭に開発に当たったと考えられる。
 その入植時期も、直入三神の志加若宮神社境内に円墳が遺され、石棺の断片から町史では五世紀中頃の築造とされている。また竹田市の説明では、竹田市一帯に遺された古墳(円墳)のほとんどは、五世紀中頃の築造とのことであった。

 しかし中にはどうしてこのような所に古墳があるのか、首を傾げたくなるのもあるとのことであったが、鉄器の普及や農業技術の進歩により、新たに開発が可能になったのであろう。

 この時代は雄略天皇の治世であり、日本書紀の雄略紀に、『詔して、諸国に桑を植え、秦氏の部曲(私有民)に養蚕・機織りによる調・庸に携わらせた。』と記されており、秦氏がいかに養蚕業に深く関わっていたかを示すものであろう。
 この雄略大王は、中国の歴史書や列島内で出土した金石文から、その存在が確実な最古の大王であり、その治世は五世紀後半である。これは志我若宮神社の石棺と年代的に変わらない。 
 また、辛嶋氏の宇佐への移動は、当時秦氏の部民であったことから秦氏の指示によるもので、宇佐を拠点に直入方面での、牧馬における駿馬の生産や養蚕を中心とした現地での経営が、宇佐氏の勢力の源であった。球覃郷での駿馬の生産を可能にしたのは、くじゅう連山及び阿蘇外輪山から広がる、広大な高原地域の草地を利用した馬牧の存在が大きな要因であろう。

 この様な馬の飼育に携わったのは、主に渡来系の集団と言われており、球覃郷の開発に朝鮮半島から渡来した、秦氏や辛嶋氏が係わっていたことを示す傍証となっている。ところで宇佐氏の力を広大な宇佐平野に求めようとするが、当時、宇佐平野はまだ形成されておらず干潟であり、そこから得られる生産物は決して多くはなかった。

                             

                          宇佐神社拝殿    石棺の断片(志加若宮神社境内)

   5.祭神のすり変え
 最初に辛嶋氏が直入に入植した五世紀中頃には、入植地の中心に彼らの精神的拠り所としての神社が設営され、そこには後の宇佐神宮の祭神でもある仁徳や応神といった、渡来系氏族が斎祀る祭神が祀られていた。ところが、ある時を境に主神が、直入物部神、直入中臣神といった、列島古来の豪族の祖神に入れ替わったと考えられるのである。
 では祭神が入れ替わった、ある時期とは何時であろうか。これらの中央豪族が新たに、この地域に勢力を扶植した時期が考えられる。即ち継体天皇の治世に、『筑紫磐井の乱(527年)』と呼ばれる、古代史上最大の内乱が勃発し、それを物部麁鹿火が鎮圧した時期であろう。
 この戦いの結果、九州内の勢力図は大きく書き換えられ、中でもこの戦いを鎮圧した物部麁鹿火は、それまでの筑紫磐井に替わり北部九州、特に筑後地域に大きく勢力を伸ばした豪族である。
 その中には直入も含まれ、統治者がそれまでの辛嶋氏から、この戦いで大和王権に組した、志我神、直入物部神、直入中臣神を祭神とする豪族に入れ換わったのである。このとき祭神のすり替えが行われ、これ以後中央豪族の祖霊を祭る神社へと代わったが、巧妙にそれまでの主神も廃止されることなく配神として残された。

 この様に、『直入三神に祈った』のは景行天皇ではなく、磐井の乱後のことであり、日本書紀の編者はあえて(ある意図があって)この記事を二世紀遡った、四世紀始めの景行天皇の事績として潜り込ませたのである。

 これまで物部神社と中臣神社については磐井の乱後、新たにその地域の支配者となったが、志我若宮神社については他の二社と異なり、磐井の乱以前より朝地の地を治めていたのではないかと考えていた。
   しかし『直入三神に祈った』との記事の目的は、新たに直入を統治するために、景行天皇巡幸と言った古い時代から既に、これらの豪族による支配は始まっていた事にするための記事であった。
  そう考えると、安曇が開拓時代からの支配者であれば、なにも三神と言わず『二神に祈った』で良いのではないか。三神に祈ったのであるから一蓮托生であり、安曇も他の物部や中臣と一緒である。即ち安曇も磐井の乱 後、新たに朝地の地を論功として得たのであり、それに伴い地名も他の地域と同様、新たに氏族名の『あずみ』との関係で『朝地』と名付けたのであろう。
  この様に長野県の安曇との関係で、両者が海人族でありながら川上の山間部に開拓地を求めたことに拘り過ぎたが、何のことはない、朝地への移動は大和側に加わった事えの論功であり、海とは何の関係もなく、朝地へ来るのは誰でも良かったのである。

                 

                   石人石馬 (岩戸山古墳館) 石人石馬は磐井の勢力範囲を示す

6.辛嶋氏はどちらに加担したか
 次に筑紫磐井の乱に際し、直入を開発した辛嶋は秦氏の一派であることから、当然大和王権に加担したと考えた。なぜなら磐井の乱に際し、大和王権は急遽本州最後の寄港地である佐波に平坦基地として、県(あがた)の設置と佐波津を開港させている。
 当時これだけの土木工事を行うには、技術力や工事伴う動員数、それに経済力を考えたとき渡来系の秦氏以外考えられず、また佐波から周防灘を隔てて対岸は秦王国の豊前であることを考えるとなおさらである。従って秦氏大和王権に組したことは明らかで、その一派であった辛嶋氏も当然大和に加担したであろうと考えた。
  しかし日本書紀、雄略紀十五年の条に『秦造酒(はたのみやつこさけ)は百八十種の勝を統括することになり、庸・調の絹・上質な絹織物を献上し、朝廷に山ほど積み上げた。そこで姓を与え、太秦(禹豆麻佐)と言う。』
  この記事から秦氏は、百八十の小部族長である勝(すぐる)を統括することになったという。百八十の部族が事実かどうかは別として、多くの小部族長がいたことは間違いなく、そのなかには辛嶋のように、族長の秦と反する行動を取った小部族長がいても不思議はない。

 おそらく辛嶋氏は、秦氏のネットワークを通じて、磐井の敗北を予期していたが、同じ北部九州を本拠地とする磐井とは旧知の仲であり、そのような関係から族長の命といえども、磐井と手を切ることができなかったのであろう。その結果、磐井に加担した豊後地方、特に大野川流域の衰退は著しく、歴史から取り残された感さえする。

 なお雄略天皇は歴史上、間違く存在した最古の大王であり、秦氏による山背への移動は、雄略が在位した五世紀後半から大きくずれることはなく、太秦の由来もここに語られ、またこの時期から山背の太秦を本拠地とし、大族である秦氏の由来譚になっている。                       

                                         

                               小椋山                  主祭神 

7.その後の辛嶋氏

 辛嶋氏にとって直入を失うことは、経済的にも政治的にも存続に係わる問題であったが、辛島氏は渡来時に宗教集団としての一面も内蔵しており、そのため新たに宇佐の辛嶋郷に比売大神信仰を持ち込み、それに伴う多くの神社を造営し、それが後の宇佐神社の出現へと向かうのである。

 宇佐神宮は全国四万社存在する八幡神社の総本山である。辛嶋氏はそこの社家として、宇佐神宮に仕える禰宜を排出するなど、神社の経営に深く関わることで以前にも増して繁栄することになった。そして宇佐神宮の勢力拡大に伴い、辛嶋氏にとり秦氏の部(私有民)として、宇佐に移動する以前の香春に進出し、これにより辛嶋郷と呼ばれる様になったのである。 

 また香春神社についても元は秦氏により、香春岳で産出する銅の生産に携わる、渡来系秦氏が奉じる神社であり、金属に係わる神が祭られていた。それが辛嶋氏の進出により八幡信仰と、朝鮮半島からの神々が祭神として加えられ、辛嶋氏による創建と考えられるようになった。

 このように辛嶋氏が香春神社を管理下に置くと、主祭神として応神天皇を奉じていることや、皇室の崇敬が厚かったことから、神社の社格も格段に上がり豊前を代表する大社の、豊前一宮として位置づけられるようになった。

 写真の山王石は、昭和14年6月30日、一の岳(香春岳)山頂より轟音と共に、降って沸いたごとく巨大石が落下し、当時そのままの雄姿で鎮座している。巨石は山頂の山王神社にちなんで『山王石』と名付けられた。

                            

                    香春神社             山王石(香春神社)

 8.風土記の伝える辛嶋氏

 辛嶋氏は『景行大王西征の第七話麻剥』で書いたように、豊前風土記の鹿春郷に、『昔、新羅国の神が自ら渡来して来て、この川原に住んでいた。そこで神の名も鹿春の神と名付けて呼んだ』とあるように、辛嶋氏も渡来してきた当初は、香春岳山麓の川沿いに住む程の集団であった。ここで言う川原とは、香春一ノ岳麓の香春神社の正面を流れる金辺川のことであり、夏吉地区を貫流英彦山川に合流する。

 その辛嶋氏のことを『新羅国の神』と呼んでおり、これはおかしな話である。半島から渡来し、川原に住む程の得体の知れない集団を、はたして神と呼ぶであろうか。考えられるのが、風土記が記された時代になると辛嶋氏は、宇佐神社の社家としての宗教的権威により、かつての豊国で神と呼ばれるほどの存在となっていたのであろう。

  ところで、この風土記の記事を辛嶋氏に関する記述とする理由は、風土記の記述には、その事を直接いわず間接的に、或いは一見何でもない言葉に重要な意味を持たせているいる場合が多い。従って、この記事のポイントは『神』であり、渡来してきた、どの集団でも良いというものでもなく、あえて辛嶋郷と呼ばれ豊前に君臨した辛嶋氏についての、渡来時の状況を書いているのである。

 この事を頭に入れて風土記を読むなら、また新たな発見があり、ある意味楽しい読み物であり歴史書(地誌)である。       

                    

               風土記小学館)                     金辺川

 9.首長墓の破壊
  球覃郷における、地域の支配者の霊廟でもある前方後円墳が、跡形もないほど破壊されたのも、この磐井の乱に関連したものと考えられる。古墳の破壊例として、筑後風土記に『磐井が豊前国上膳県に逃げ、官軍が怒って墓の石人石馬を打ち壊した』事が記され、久住町仏原における首長墓の破壊も、この磐井の乱によるものである。
 ところが首長墓の破壊は、同じ直入郡内にあっても、なぜか柏原郷の『七ツ森古墳』は破壊を免れているのである。この両者の違いは一体何によるものであろうか。
   即ち磐井の乱以後の直入での統治に、朝廷の祭祀を司る中臣氏は、柏原郷(柱立神社から)の七ツ森古墳群こそ破壊しなかったものの、彼らが奉じる神以外は認めるはずもなく中臣氏古来の祖神のみが祭られた。なお直入中臣神社は阿蘇野ではなく、巨石が連立し柏原郷内にある柱立神社が相応しい。

 これとは別な理由として、七ツ森古墳群は阿蘇氏にとって祖神の眠る聖地ともいえる場所であり、そのような首長墓群を中央の大豪族である中臣氏といえども、破壊するわけにはいかなかったのであろう。
 これに対し遠征軍事集団としての物部氏は、球覃郷(籾山八幡社の位置から)の首長墓を破壊することで、過去を徹底して消し去り新たな統治をおこなった。
  この様な直入内における郷数は、弥生時代後期には菅生台地と高地の宮処野神社近辺の二ヶ所に集約されていたが、磐井の乱後の六世紀始めには、『直入三神に祈った』とあることから、中央豪族の所有地となった三郷(三社)存在していた。それが豊後風土記が記された七世紀になると、柏原郷と球覃郷に三宅郷と直入郷を加えた四郷となり、律令制度も整い竹田市岡本地区に三宅の地名が遺されていることから、三宅の地に郡衙が設置されたと考えられている。

                                

                  七ツ森古墳群                       三宅大歳神社(竹田市)

10.朝地の地名と志我神
 朝地の志加若宮神社を訪れると、志我神を祀っていることから、福岡市の志賀島に鎮座する志賀海神社を祀る安曇族と同族と考えられる。 
 そして『あずみ』の地名が遺された地域は、かつて日本列島に展開し安曇が活躍した遺称地と言われている。長野県安曇市の安曇をはじめ、愛知県渥美半島滋賀県高島郡安曇村、あるいは安角(あずみ)、厚見(あつみ)、安積(あさか)、温海(あつみ)、等の地名が遺され、これらの地域はかつて海人族の安曇が展開した故地である。

    従って志加若宮神社の鎮座する、豊後大野市の『朝地』の地名ついても、同様に朝地(あさじ)は安曇が訛って音変化したと考えられ、志我神を祀る志加若宮神社の存在は、いっそうその感を強くする。このように安曇が朝地へ訪れた事は間違いなく、そのため朝地の地名も起こったのであろう。
 安曇は古代の九州北部において、海上交通の要衝である志賀島を本拠地とし、列島を取り囲む海域を支配した海人族である。日本列島と中国南部を行き来するなかで、中国からの移住農耕民を列島各地の農耕地に適した地域に運び、入植させ水田稲作農耕を広めていったと考えられている。
 この様な海人族の安曇が活躍したのは弥生時代のことであり、文字として残っていないため、安曇が列島各地を行き来した様子は知るよしもないが、それでも各地に遺された地名に彼らの活躍した様子がうかがえる。

 その後、歴史時代になり安曇が歴史書のなかに記される様になると、近畿地方を始めとした、その地域に限定されたローカルな海人族として記され、かつての様な安曇が持つ高度な航海術を用いた、遠洋航海は既に失われていた。

 そのような海人族のなかに、有明海大川市(風浪神社)を拠点とし、志賀海神社を祀る安曇族と同族の海人族がいた。こちらは神功皇后の水師(水軍の長)だった安曇磯良丸(あずみのいそらまる)が、新羅からの帰路に大川で神功皇后の勅命により、風浪神社の初代斎主としてこの地に残り、少童命(わたつみのみこと)を祀ったという。

 なお、このような中国南部から日本列島を目指した移住集団の中に対馬海流に載り鹿児島県の南端に漂着した一団がいた。彼らこそ高千穂峰に天下ったという瓊瓊杵尊一行である。

                           

              安曇磯良丸像(風波宮)           志加若宮神社

 11.直入三神の意味するところ
 ところで直入で三神に祈ったのは、日本書紀(景行紀)の熊襲征伐と言われる一連の記事のなかの一部であるが、景行天皇の治世は四世紀始めと考えらている。従って、この時代に大和の豪族による、九州内への勢力の浸透は甚だ疑問である。
 そのため日本書紀のこの記事は、景行の時代より二世紀下った五二七年に北部九州で勃発した、磐井の乱と呼ばれる古代史最大の戦いで、大和の豪族による九州平定譚と考えなら辻褄があう。
 即ち、この記事は景行天皇といった古い時代から、大和の物部氏や中臣氏と言った豪族により九州の統治が行われていた事にする一文である。これにより大和の豪族による統治の正当性を主張しているのである。
 この様にして景行紀に潜り込ませた理由は、磐井の乱により北部九州を手にした物部氏に取り、磐井がこれまで持っていた筑紫での輝かしい実績を消さなければ、今後この地域を統治していく上で磐井の存在をどうしても消す必要があった。
 そのためには磐井の存在おも抹殺必要性があり、このような記事を景行天皇治世に潜り込ませたのである。このように見ていくと、時の中央政府で編纂され正史と言われる日本書紀も、見方を変えると非常に政治的意味合いの濃い歴史書であることが分かる。