豊国と辛嶋氏

辛嶋氏の盛衰

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                   豊後風土記の伝える直入

                        直入郡の風景(長湯方面から祖母山、傾山を望む)

  

1.豊後風土記が伝える直入
 直入について、豊前風土記(713年)に『直入の郡。郷は四所、駅は一所である。昔、直入郡(なおりのこおり)に真っ直ぐに伸びた大きな桑の樹があったことから、直桑(なほくは)といったのが訛って直入(なほいり)となった』と記されている。
 四カ所と記された内の、柏原(かしわばる)郷と救覃(くたみ・朽網郷)郷についての記述はあるが他の二郷の記述がない。しかし「和妙抄」(931年 - 938年)に、宅郷・直入郷の記述があり、記載されていない二郷は三宅郷と直入郷であったと推察できる。
 柏原郷は現在の竹田市荻町・竹田市菅生一帯、救覃郷(朽網郷)は竹田市久住町都野地区・竹田市直入町一帯、三宅郷は竹田市の東部地域、直入郷は竹田市城原地区・竹田市久住町一帯であったと考えられる。(竹田市概要より)           

        

                            旧直入郡(現竹田市)全図 大正十三年作成

2.二ヶ所の大集落
 近年、球覃郷であった宮処野(みやこの)神社近くの仏原地区(都野原田遺跡)において、補圃場整備工事に伴い、墳丘も失われた前方後方墳(3世紀中頃・全長26m)と前方後円墳(4世紀始全長37m)とが確認された。

 これらの首長墓は早い時期に破壊されていたが、築造時期は非常に早期であり、初期大和王権誕生の秘密を含む興味深い古墳である。これまで知られる事もなく、古墳の他にも大集落跡や同時期の集団墓の存在も明らかになった。

 そして今回の古墳群の発見や、豊後風土記の直入に、柏原郷と球覃郷の二ヶ所が占める記述の多いことから、これら両地域に首長墓が築かれ、直入における二大中心地であったことが分かった。この二ヶ所の大集落は弥生時代からの集落であり、何れも地形を利用し防御に徹した場所に営まれている事から、当時は戦いが多く互いに緊張状態にあった事が窺える。

 なかでも、柏原郷の一部であった七ツ森古墳の存在する菅生台地では、台地を埋め尽くすほどの大集落(石井入口遺跡)を深い谷が取り囲み、地形的に敵からの侵入を防ぐ、天然の要害の地となっていた。また球覃郷についても、くじゅう連山の斜面と言った高位置に集落を築くことにより、集落からは登ってくる敵を一望することができると共に、状況に応じてくじゅう連山に逃げ込み、侵入者から身を守ることができた。
 このような大集落も、古墳時代になると状況が大きく異なり、菅生台地では台地を埋め尽くすほどの住居も、5世紀になると水田耕作が容易な阿蘇カルデラへ移住していき、菅生台地から人々が去り衰退していったた。これに対し、球覃(くたみ)郷は、その後も嵯峨天皇に采女(うぬめ)を出仕させるなど中世まで栄え、大きく異なる状況を呈している。

 この両者の違いは、両地域の古墳の築造年代の違いでも分かるように、球覃地域の前方後円墳は前期前半の早い時期のもので、早期に大和王権との間に服属関係が成立したことを示すものである。また行宮の所在地を示す宮処野の地名など、土記においても大和王権との良好な関係を示す伝承が多い。

 それに対し柏原郷では、七ツ森古墳群の築造が(4世紀始~終)と球覃郷に比べ遅く、また日本書紀や風土記の記述から、大和政権に従わない土蜘蛛の本拠地として描かれており、同じ直入にあっても大和王権に対する対応は大きく異なっていた。 

        筆者撮影            筆者撮影

                                          

    菅生台地を囲む谷 (柏原郷)    宮処野神社(球覃郷)

3.桑の木が意味するもの
 次に、豊後国風土記は直入の郡について次のように伝えている。『昔、群の役所の東にある桑木村に、桑が生えていた。その高さはきわめて高く、枝も幹もまっすぐで、端正な美しさがあったので、土地の人々は、直桑(なおくわ)の村といっていた。のちの人が改めて直入の郡といっているがそれがここである。』小学館 風土記より

 直入での地名説話は、風土記に見られるいつもの、こじつけ地名説話の様に見えるが実はそうではなく、実際に直入には桑の大木が生えていたのである。そして、桑の木を地名説話に用いているのは、直入について公言できない事情があったとも考えられ、それに対する暗号としての桑の木が記されているのではなかろうか。

 現在、桑の木を見かける事など、ほとんどなくなったが、かつてこの桑の葉を使いて各地で養蚕が行われていた。子供の頃に五、六月になると『くわいちご』と呼ばれていた、黒色に色付いた桑の実を取りに行った事を思い出す。

 その桑も冬になると、地上部を切って株だけにし、再び春が訪れるとそこから新たに新芽が芽吹き新葉を茂らせるのである。その桑の葉を枝ごと切り取り、小屋で育てていた蚕(かいこ)の餌として、繭(まゆ)になるまで毎日新鮮な桑の葉を与えるのである。
 その様な桑の木を、風土記のように、『真っ直ぐに伸びた大きな桑の樹』と表現された桑の木とは、一体どの様なものであった想像し難く、調べてみると日本列島には多くの桑の巨木が存在している。なかでも群馬県沼田市の『薄根の大クワ』は驚くことに、高さ13.6m、根回り5.6m、樹齢1500年(環境庁調査では300年以上)養蚕群馬の象徴として古くより養蚕の神として称えられ、国の天然物に指定されている。
 この事から、『大きな木』の意味する所は、昔から桑の木が植えられ、それに伴い養蚕も昔から行われていたという時間的経過を表現しており、また『枝も幹もまっすぐで、端正な美しさがあった』とは、美しい絹を生み出すことできる桑の木を賛美しているのである。その桑の木も、たまたま生えていたのではなく、身近にあり直入を代表する木であった。

          じゃらんパック            使用確認済

                    

          薄根の大桑                        桑の葉を食べる蚕
                       (西谷蚕糸博物館)

4.桑の地名が示す絹の生還

 そこで考えられるのが、直入はそのほとんどが山地であり、そこでの水田耕作は難しく、後の「豊後国正税帳」(736年)では、直入郡の正税稲穀は他郡に比べ極めて少ないことが記されている。そのため、これに替わるものとして、丘陵地でも栽培が可能な桑が植えられ養蚕が行われていたのである。それが風土記に記された地名説話における桑の木の所以であろう。
 このように、『直桑(なおくわ)の村』と言われた直入では桑が植えられ、それに伴い桑の付いた地名が多く見受けられる。桑原や荻町桑木、直入町長湯の桑畑、あるいは竹田市旧七里村の桑木原など桑の付く地名がそれである。

 そして長湯横穴墓群(竹田市直入町大字長湯字桑畑)に至っては、地名から桑が植えられ蚕の生産に係わった、その地域の支配者的立場にあった人物が、長湯横穴墓群(9基)に葬られた事が考えられるのである。この他、大野町にも桑原の地名が残されており、豊後の山間部では各地で桑が植えられていた。

 このような桑に関する地名から、その葉を餌とする蚕が飼われ、養蚕業が盛んに行われていたことが窺えるのである。ところが、このような状況証拠があるにも拘わらず、桑や養蚕に関する記述は風土記の地名説話意外に見られず、日本書紀についても絹に関しての記述は限定的である。

 ところで機織(はたおり)は、渡来系秦氏(はたし)が朝鮮半島から伝え、機(ハタ)は秦に通じ、秦氏と養蚕との関係は深く、直入での養蚕業にも大きく関わっていたと考えられる。このことから当時、絹は高価で貴重であった事から、養蚕に関する技術は秦氏一族内だけで行われていたのではなかろうか。そう考えると地名説話に記された桑の木の意味も理解できるのである。

 この暗号を見逃すと、竹田市の直入郡の説明のように、『古代の直入郡は、「野」と呼ばれるくじゅう連山及び阿蘇外輪山から広がる、広大な高原地域の草地を利用した牧馬と、古代における高貴な色の染料である紫草(むらさき)の生産を、水田の乏しい郡を支える糧としていたと考えられる。』(第1章 竹田市の歴史的風致形成の背景より)、養蚕に関するものが全く見られず、豊後の山中における絹の生産など全く想像さえされなかった様である。 

 なお、直入郡の説明のなかで、馬を飼い育て牧を営んだのは主に渡来人だと言われ、広大な草原地域で馬牧を営んだのは渡来系の秦氏(辛島氏)であった。筑紫磐井の乱後、辛島氏から中臣氏と言った新たな支配者に置き換わったが、絹の生産には繭や絹を織り上げる機織りと言った、特別な技術を要するため、多くの渡来系辛島氏が直入にとどまった。

 また染料の紫草についても、絹との相性が良いと言われる紫草が栽培されていたのなら、それを使って染める絹も生産されていたと考えられるのである。なお紫草の根である紫根から取られる染料の紫は、古来から高貴な色とされ、紅花、藍とともに、日本三大色素の一つに数えられている。

 

         使用確認中           購読新聞より

            

       紫根で染めた絹糸          阿蘇の牧野

5.養蚕に係わった渡来人
 では実際に直入での養蚕業に携わっていたのはどの様な集団であっただろうか。
秦氏の中でも、直入での開発や養蚕に直接係わっていたのが、当時秦氏の一派であった辛嶋氏である。豊前を本拠地とする秦氏の部民として、後の豊後に属する宇佐を本拠地とし、族長の辛嶋勝(からしますぐり)を先頭に直入の開発に当たったのである。
 その入植時期も、直入三神の志加若宮神社境内に遺された、円墳の石棺の断片から、町史では5世紀中頃の築造とされている。また竹田市の説明でも、竹田市一帯に遺された古墳(円墳)のほとんどが、5世紀中頃の築造であるとの事から、この頃から辛島氏による直入での開発が始まったと考えられる。

 この時代になると鉄器の普及や農業技術の進歩により、それまで手の届かなかったところへ手が届くようになり、新たに開発が可能になったのであろう。そのため、なかには古墳が築造された場所に、首を傾げたくなるようなものも存在する。   

 そして、辛島氏が直入に入植したのは雄略天皇の治世であり、日本書紀の雄略紀に、『詔して、諸国に桑を植え、秦氏の部曲(私有民)に養蚕・機織りによる調・庸に携わらせた。』と記され、秦氏がいかに養蚕業に深く関わっていたかを示すものであろう。

 また日本書紀、雄略紀十五年の条に『秦造酒(はたのみやつこさけ)は百八十種の勝を統括することになり、庸・調の絹・上質な絹織物を献上し、朝廷に山のごとく積み上げた。そこで姓を与え、太秦(禹豆麻佐)と言う。』との記事が見える。

 この記事から、山ほど積み上げられた上質な絹織物の中には、秦氏の一派である辛島氏により、直入で織り上げられた絹も含まれていたと考えられるが、日本書紀に絹に関する記事はこれ以外見られず、詳しいことは不明である。

 しかし秦造酒は、百八十の小部族長である勝(すぐる)を統括することになったといい、百八十の部族が事実かどうかは別として、多くの小部族長がいたことは間違いなく、そのなかには辛島氏のように、絹の生産に関わる部族も各地に存在したのであろう。その事を窺い知る事ができるのが、直入郡における風土記の記述である。

 この雄略大王は、中国の歴史書や列島内で出土した金石文から、その存在が確実な最古の大王であり、その治世は5世紀中頃から後半にかけてである。これは直入で三神に祈ったという、志我若宮神社の石棺と年代的に合致するものである。 


              以下全て筆者撮影

                             

                          宇佐神社拝殿    石棺の断片(志加若宮神社境内)

   6.祭神のすり変え
 最初に辛嶋氏が直入に入植した5世紀中頃には、入植地の中心に彼らの精神的拠り所としての神社が設営され、そこには後の宇佐神宮の祭神でもある仁徳や応神といった、渡来系氏族が斎祀る祭神が祀られていた。ところが、ある時を境にそれまでの主神が、直入物部神、直入中臣神といった、列島古来の豪族の祖神に入れ替わったと考えられるのである。
 では祭神が入れ替わった、ある時期とは何時であろうか。これらの中央豪族が新たに、この地域に勢力を扶植した時期が考えられる。即ち継体天皇の治世に、『筑紫磐井の乱(527年)』と呼ばれる、古代史上最大の内乱が勃発し、それを物部麁鹿火が鎮圧した時期であろう。
 この戦いの結果、九州内の勢力図は大きく書き換えられ、中でもこの戦いを鎮圧した物部麁鹿火は、それまでの筑紫磐井に替わり北部九州、特に筑後地域に大きく勢力を伸ばした豪族である。その中には直入も含まれ、統治者がそれまでの辛嶋氏から、この戦いで大和王権に組した、志我神、直入物部神、直入中臣神を祭神とする豪族に入れ換わったのである。

 このとき祭神のすり替えが行われ、これ以後中央豪族の祖霊を祭る神社へと代わったが、巧妙にそれまでの主神も廃止されることなく配神として残された。この様に、『直入三神に祈った』のは景行天皇ではなく、筑紫磐井の乱後の事であり、日本書紀の編者はあえて(ある意図があって)この記事を二世紀遡った、四世紀始めの景行天皇の事績として潜り込ませたのである。

 この様に、 『直入三神に祈った』との記事の目的は、新たに直入を統治するうえで、景行天皇巡幸と言った古い時代から既に、これらの中央豪族による直入の支配は始まっていた事にするための記事であった。

 これまで物部神社と中臣神社については磐井の乱後、新たにその地域の支配者となったが、志我若宮神社については他の二社と異なり、長野県の安曇との関係で、両者が海人族でありながら川上の山間部に開拓地を求めていることから、磐井の乱以前より朝地の地を治めていたのではないかと考えていた。

 ところが三神に祈ったとあるからには、安曇も他の物部や中臣と同様に一蓮托生であり、安曇も磐井の乱 後、新たに朝地の地を論功として得たのである。それに伴い地名も、新たに氏族名の『あずみ』との関係で『朝地』と名付けたのであろう。この様に安曇による朝地への移動は、大和側に加わった事への論功であり、海とは何の関係もなく、朝地へ来るのは誰でも良かったのである。

        

                 

                   石人石馬 (岩戸山古墳館) 石人石馬は磐井の勢力範囲を示す

7.辛嶋氏はどちらに加担したか
 次に筑紫磐井の乱に際し、直入を開発した辛嶋は秦氏の一派であることから、当然大和王権に加担したと考えた。なぜなら磐井の乱に際し、大和王権は急遽本州最後の寄港地である佐波に兵站基地として、県(あがた)の設置と佐波津を開港させている。
 当時これだけの土木工事を行うには、技術力や工事に必要な動員数、それ伴う経済力を考えたとき渡来系の秦氏以外考えられず、さらに佐波から周防灘を隔てて対岸は秦王国の豊前であることを考えるとなおさらである。従って秦氏が大和王権に組したことは明らかで、その一派であった辛嶋氏も当然大和に加担したであろうと考えた。

 ところが、磐井に加担したと考えられる豊後地方、特に大野川流域の衰退は著しく、歴史から取り残された感さえする。この地域はかつて辛島が開発し、桑を植え絹を生産した地域である事から、辛嶋は族長の秦(勝)と反する行動を取ったのではなかろうか。

 おそらく辛嶋氏は、秦氏のネットワークを通じて、磐井の敗北を予期していたが、同じ北部九州を本拠地とする磐井とは旧知の仲であり、そのような関係から族長の命といえども、磐井と手を切ることができなかったのであろう。

 辛嶋氏の宇佐への移動は、当時秦氏の部民であったことから秦氏の指示によるものであったと考えられ、宇佐を拠点に直入方面での、牧馬における駿馬の生産や養蚕を中心とした現地での経営が、辛島氏の勢力の源であった。そして球覃郷での駿馬の生産を可能にしたのは、くじゅう連山及び阿蘇外輪山から広がる、広大な高原地域の草地を利用した馬牧の存在が大きな要因であろう。

 この様な馬の飼育に携わったのは、主に渡来系の集団と言われており、球覃郷の開発に朝鮮半島から渡来した、秦氏や辛嶋氏が大きく係わっていたことを示す傍証となっている。ところで宇佐氏の力を広大な宇佐平野に求めようとするが、当時、宇佐平野はまだ形成されておらず干潟であり、そこから得られる生産物は決して多くはなかった。

 

                                         

                               小椋山                  主祭神 

8.その後の辛嶋氏

 辛嶋氏にとって直入を失うことは、経済的にも政治的にも存続に係わる問題であったが、渡来時に宗教集団としての一面も内蔵しており、そのため新たに宇佐の辛嶋郷に比売大神信仰を持ち込み、それに伴う多くの神社を造営し、それが後の宇佐神社の出現へと向かうのである。

 宇佐神宮は全国四万社存在する八幡神社の総本山である。辛嶋氏はそこの社家として、宇佐神宮に仕える禰宜を排出するなど、神社の経営に深く関わることで以前にも増して繁栄することになった。そして宇佐神宮の勢力拡大に伴い、辛嶋氏にとり秦氏の部(私有民)として、宇佐に移動する以前の香春に進出し、これにより香春が辛嶋郷と呼ばれる様になったのである。 

 また香春神社についても、元は秦氏により奉じられ、香春岳で産出する銅の生産に携わる、金属に係わる神が祭られていた。それが辛嶋氏の進出により八幡信仰と、朝鮮半島からの神々が祭神として加えられ、辛嶋氏による創建と考えられるようになった。

 このように辛嶋氏が香春神社を管理下に置くと、主祭神として応神天皇を奉じていることや、皇室の崇敬が厚かったことから神社の社格も格段に上がり、豊前を代表する大社としての豊前一宮として位置づけられるようになった。

 写真の山王石は、昭和14年6月30日、一の岳(香春岳)山頂より轟音と共に、降って沸いたごとく巨大石が落下し、当時そのままの雄姿で鎮座している。巨石は山頂の山王神社にちなんで『山王石』と名付けられた。

                            

                    香春神社             山王石(香春神社)

 9.風土記の伝える辛嶋氏

 辛嶋氏は豊前風土記の鹿春郷に、『昔、新羅国の神が自ら渡来して来て、この川原に住んでいた。そこで神の名も鹿春の神と名付けて呼んだ』とあるように、辛嶋氏も渡来してきた当初は、香春岳山麓の川沿いに住む程の集団であった。ここで言う川原とは、香春一ノ岳麓の香春神社の正面を流れる金辺川のことであり、夏吉地区を貫流し英彦山川に合流する河川のことである。

 その辛嶋氏のことを『新羅国の神』と呼んでおり、これはおかしな話である。半島から渡来し、川原に住む程の得体の知れない集団を、はたして神と呼ぶであろうか。考えられるのが、風土記が記された時代になると辛嶋氏は、宇佐神社の社家としての宗教的権威により、かつての豊国で神と呼ばれる程の存在となっていたのであろう。

  ところで、この風土記の記事を辛嶋氏に関する記述とする理由は、風土記の記述には、その事を直接いわず間接的に、或いは一見何でもない言葉に重要な意味を持たせているいる場合が多い。従って、この記事のポイントは『神』であり、渡来してきた、どの集団でも良いというものでもなく、あえて辛嶋郷と呼ばれ豊前に君臨した辛嶋氏についての、渡来時の状況を書いているのである。

 この事を頭に入れて風土記を読むなら、また新たな発見があり、ある意味楽しい読み物であり歴史書(地誌)である。                 

                             

                  香春岳                            金辺川

 10.首長墓の破壊
  それにしても、球覃郷における地域の支配者の霊廟でもある前方後円墳を、跡形もないほど破壊されたのも、この磐井の乱に関連しての事と考えられる。古墳の破壊例として、筑後風土記に『磐井が豊前国上膳県に逃げ、官軍が怒って墓の石人石馬を打ち壊した』事が記され、久住町仏原における首長墓の破壊も、この磐井の乱によるものであろう。
 ところが首長墓の破壊は、同じ直入郡内にあっても、なぜか柏原郷の『七ツ森古墳』は破壊を免れているのである。この両者の違いは一体何によるものであろうか。
   即ち磐井の乱以後の直入での統治に、朝廷の祭祀を司る中臣氏は、柏原郷(柱立神社から)の七ツ森古墳群こそ破壊しなかったものの、彼らが奉じる神(直入中臣神社)以外は認めるはずもなく中臣氏古来の祖神のみが祭られた。なお直入中臣神社は阿蘇野ではなく、巨石が連立し柏原郷内にある柱立神社が相応しい。

 これとは別な理由として、七ツ森古墳群は阿蘇氏にとって祖神の眠る聖地ともいえる場所であり、そのような首長墓群を中央の大豪族である中臣氏といえども、破壊するわけにはいかなかったのであろう。これに対し遠征軍事集団としての物部氏は、球覃郷(都野原田遺跡)の首長墓を破壊することで、過去を徹底して消し去り新たな統治をおこなったのである。
  ところで、直入のようなに金の卵とも言える、絹を産出する地域を大和王権が見逃すはずはなく、磐井の乱後、直入に屯倉(ミヤケ)が設置されたと考えられる。その位置も竹田市内に三宅の地名が遺されていることから、この地域に屯倉が設置されたと考えられ、現在、三宅大年神社が鎮座している地域がそれである。 

 これについて、日本書紀の安閑天皇2年(536年)の条に、豊国に、勝碕、桑原]、肝等、大抜、我鹿、の5カ所の屯倉が設置されたことが記されている。竹田市史では、諸処な理由を挙げ、この内の『我鹿(アカ)屯倉』を直入に設置された屯倉と考えているようであるが、桑の木(養蚕)に関する考証が全くされておらず、我鹿屯倉は問題がある。なお我鹿は福岡県田川郡赤(あか)村に比定されているようである。

 しかし地名から見るなら、どうみても桑を植え繭にまで育て、それを絹に織り上げる土地柄であった事を考えると、桑原の地名も残されている『桑原屯倉』が最もに相応しいであろうであろう。

                                

                  七ツ森古墳群                 宮山(三宅)大歳神社(竹田市)

11.朝地の地名と志我神
 朝地の志加若宮神社を訪れると、志我神を祀っていることから、福岡市の志賀島に鎮座する志賀海神社を祀る安曇族と同族と考えられる。 
 そして『あずみ』の地名が遺された地域は、かつて日本列島に展開し安曇が活躍した遺称地と言われている。長野県安曇市の安曇をはじめ、愛知県渥美半島、滋賀県高島郡安曇村、あるいは安角(あずみ)、厚見(あつみ)、安積(あさか)、温海(あつみ)、等の地名が遺され、これらの地域はかつて海人族の安曇が展開した故地である。

    従って志加若宮神社の鎮座する、豊後大野市の『朝地』の地名ついても、同様に朝地(あさじ)は安曇が訛って音変化したと考えられ、志我神を祀る志加若宮神社の存在は、いっそうその感を強くする。このように安曇が朝地へ訪れた事は間違いなく、そのため朝地の地名も起こったのであろう。
 安曇は古代の九州北部において、海上交通の要衝である志賀島を本拠地とし、列島を取り囲む海域を支配した海人族である。日本列島と中国南部を行き来するなかで、中国からの移住農耕民を列島各地の農耕地に適した地域に運び、入植させ水田稲作農耕を広めていったと考えられている。
 この様な海人族の安曇が活躍したのは弥生時代のことであり、文字として残っていないため、安曇が列島各地を行き来した様子は知るよしもないが、それでも各地に遺された地名に彼らの活躍した様子がうかがえる。

 その後、歴史時代になり安曇が歴史書のなかに記される様になると、近畿地方を始めとした、その地域に限定されたローカルな海人族として記され、かつての様な安曇が持つ高度な航海術を用いた、遠洋航海は既に失われていた。

 そのような海人族のなかに、有明海の大川市(風浪神社)を拠点とし、志賀海神社を祀る安曇族と同族の海人族がいた。こちらは神宮皇后の水師(水軍の長)だった安曇磯良丸(あずみのいそらまる)が、新羅からの帰路に大川で皇后の勅命により、風浪神社の初代斎主としてこの地に残り、少童命(わたつみのみこと)を祀ったという。

 なお、このような中国南部から日本列島を目指した移住集団の中に対馬海流に載り鹿児島県の南端に漂着した一団がいた。彼らこそ高千穂峰に天下ったという瓊瓊杵尊一行である。

                           

              安曇磯良丸像(風波宮)           志加若宮神社

 

            あとがき
 ところで直入で三神に祈ったのは、日本書紀(景行紀)の熊襲征伐と言われる一連の記事のなかの一部であるが、景行天皇が実在したとするなら、その治世は四世紀始めと考えらている。従って、この時代に大和の豪族による、九州内への勢力の浸透は甚だ疑問である。
 そのため日本書紀のこの記事は、景行の時代より二世紀下った、527年に北部九州で勃発した、磐井の乱と呼ばれる古代史最大の戦いで、大和の豪族による九州平定譚と考えなら辻褄があう。
 即ち、この記事は景行天皇といった古い時代のものではなく、磐井の乱により初めて九州管内への国造の配置が可能となり、それに伴い三宅が設置されたのである。しかし、それまでの北部九州の盟主としての筑紫の存在は大きく、そのために磐井の存在を消し去る必要性があった。

 そこで考え出されたのが、物部氏や中臣氏と言った中央豪族による統治が、磐井以前のはやい時期から行われていたとする、直入三神に祈ったとの一文である。『この時に祈り祀る神は、則ち志賀神、直入物部神、直入中臣神の三神である』これにより大和の豪族による統治の正当性を主張しているのである。
 この様にして景行紀に潜り込ませた理由は、磐井の乱により北部九州を手にした物部氏に取り、磐井がこれまで持っていた筑紫での輝かしい実績を消さなければ、今後この地域を統治していく上でやり難いものとなり、磐井の存在をどうしても消す必要があったのである。
 そのため、このような記事を景行天皇治世に潜り込ませたのである。このように見ていくと、時の中央政府で編纂され正史と言われる日本書紀も、見方を変えると非常に政治的意味合いの濃い歴史書であることが分かる。